私たちについて

About

(有)人と農・自然をつなぐ会

HITOTONO SHIZENWOTSUNAGUKAI

静岡県藤枝市の山間部で、農薬や除草剤だけでなく、化学肥料も一切使わないでお茶を作っています。
私達は代々続く茶農家で、杵塚敏明が、「無農薬茶の会」を経て、1976年に有限会社を設立しました。
会社名は、人と自然なしに生きられず農業を通じて
少しでもその大切さを再認識できる手助けができればという願いからきています。
有機栽培でお茶を作り、生産・加工・包装・販売と一貫して行っています。

代表取締役と創業者

Representative Director and Founder

  • 2019年より代表取締役に就任いたしました。日々の農作業や茶の加工など主な仕事内容は今までと変わりませんが、今まで先代の背負ってきた責務の重大さをまた一端だとは思いますが痛感しています。

    まだ私が5〜6歳の頃に父の膝の上で重機に乗り、茶畑の改植をしたり、畑の草取りや収穫などをしたのを覚えています。夜になると父がお客さんを交え、お茶について熱く語り合っているのを聞いていました。今私の息子が5歳になり、今度は自分が父親の目線で息子を見て感慨深いものを感じます。

    私達のお茶は、栽培、収穫、荒茶加工、仕上げ加工、パッケージング、発送を1人ではなく多くの人の手、それぞれの思い、歴史そして茶畑を取り巻く自然により出来上がっています。1976年より、農業・化学肥料を一切使わずお茶を作ってきました。これから先も末永く皆様に安心・安全で美味しく飲んでいただけるお茶を全社員一致団結して全力を尽くして作っていきますので、今後ともどうぞよろしくお願い致します。

    代表取締役杵塚 一起

  • 案ずるより産むが易し。とよく言われますが男である私にはよくわかりません。ただ茶百姓たちは毎年味わっているモヤモヤなのです。

    春3月を迎え4月に入るとお茶の目は一斉に伸び始めます。さぁー大変です。天気予報を見ながら今夜は冷えそうだ、遅霜は来ないか!強い風は吹かぬか!新芽の顔色を伺いながら有機肥料、撒き肥等は聞いているのか?などなど不安材料を増やしながら心配を募らせる。やるだけの事をやって迎えた新茶期なんだ!もっと堂々とせんかと自らを叱咤激励。しかし、自然の力は大きいからまた振り出しに戻るのです。新茶の収穫も不安定期を乗り越えて大きな喜びに変わるのです。

    私は今年で76歳になります。32歳の時、藤枝市、島田市を中心とした消費者40名と生産者4名とで「無農薬茶の会」を立ち上げました。両者が協力、援農作業などもちろんのこと無農薬・有機栽培農法で無農薬茶を作り出した時でした。

    代表取締役に着任した杵塚一起は今年で32歳になります。どこまで歴史を積み上げられるか楽しみにしています。ご指導、ご鞭撻の程どうそ宜しくお願い致します。

    創業者杵塚 敏明

私たちの主な取り組み

Effort

私達がお茶を生産している静岡県瀬戸谷地域は、360度山々に囲まれ昼夜の温度差が大きく霧が頻繁に発生する、優良な茶産地です。
しかし、山間部という良質なお茶を栽培するには好条件な地ですが、収穫時期が平地と比べて遅く、茶価の低迷が続く市場価格において厳しい状況です。
また山間部は傾斜地が多く作業が大変で作業効率も悪く、年々お茶の耕作をやめる農家が増え、耕作放棄地の問題や農家の高齢化、後継者不足も深刻です。
私達の先祖達が苦労して険しい山々を切り開き作られた茶畑が、荒れていくのを見るのは、とても辛く、悲しい思いでいっぱいになります。

当会は、地域が抱える課題を解決するために有機茶の仲間作り、新規就農者の育成、耕作放棄茶園の育成、環境保全、安全な農産物の自給率向上に力を入れています。
地域の農業や農家のために、私達が力を入れている取り組みをご紹介します。

1.有機茶農家の仲間作り

藤枝市で有機茶に転換したい農家や有機茶農家を支援。栽培方法や知識を伝え有機茶を栽培する農家を増やし新規就農者の育成にも力を入れています。

2.インターン・研修生受け入れ

国内外から、有機茶や農業に興味を持つ若者を受け入れ、お茶や地域の魅力を伝える取り組みをしています。

3.耕作放棄茶園の再生

次世代に繋げられる茶畑を残すために、毎年少しずつではありますが放棄茶園を再生する取り組みを行なっています。

私たちの歴史

History

  • 消費者と連携した有機茶栽培の歩み
    創業者 杵塚敏明

    日本で「有機農業」という語が正式に使われ始めたのは1971年有機農業研究会が発足した時と言われる。DDTやBHCといった残留性の高い有機塩素系の農薬が販売禁止になったのも1971年である。また、1975年には有吉佐和子のベストセラー「複合汚染」が出版されるなど、農薬など化学物質による環境や食品の汚染に対する人々の関心が一気に高まったのが70年代であります。
    このような時代背景の中、創業者の杵塚敏明がそれまでの茶農協の組合員をやめ、有機茶生産に取り組んだのは1976年です。

    「茶農協にいた頃、こんな作り方で良いのかといつも悩んでいました。例えば農薬は茶の葉の裏も表も害虫を退治するにはそれまでの10アール200ℓじゃ足らない、400ℓ撒けというような指導がありました。また、肥料は化学肥料だけでした。おかげで土壌が酸性化し、秋に瞬間的に苦土石灰でpHを調整すると、土壌はどんどん硬くなってしまう。これじゃダメだからちゃんと堆肥を作ろうと茶農家の中で主張しても、当時はお茶が高く売れていたのでそんな必要ないと仲間からは言われていました。より安全で美味しいお茶を作るにはどうするのかといつも考えていたので、冗談じゃないと思いました。僕は自然と競争して克服するのではなく、自然の恩恵を引っ張り出す農業をすべきだと考えていました。いつも茶農協の方針と違う主張をしていたので、そのうち茶農協を追い出されることになりました。」

    「我が家の茶畑が小さかったこともあって、以前からアルバイトで生協の牛乳配達をやっていました。それで消費者と直接話をすることができたのですが、消費者の皆さんは農薬についてかなり敏感で、無農薬のお茶が出来ないのかと私に話をしてきました。これは面白いと思って消費者と協力して無農薬のお茶を作ろうと思い立ったわけです。」

  • 安全な食を求める消費者運動

    「会員を募って、消費者の奥さん達と一緒に無農薬茶の会というのを立ち上げました。あの頃の消費者運動というのは凄かったですね。農薬・化学肥料・除草剤、安全な食料にとってこの三つが敵だと言う雰囲気でね。レイチェル・カーソンの「沈黙の春」がその何年か前に出版されたんですが、それを読んだとても勇敢な奥さん達がその本のことを教えてくれました。」

    「かつて大学闘争をやった人たちが農業や食べ物に関心を高めてきた時代でした。そういう勇ましい奥さん達が地域へ行っては農業者を説得し有機農業を始めるということが、各地に運動として、燎原の火のごとく広がったんです。」

  • 試行錯誤を経て

    消費者と連携して自分の理想とする茶栽培を始めたものの、当時は、先駆者ならではの苦労を経験しました。「現在は新茶時期に害虫の被害は特にありませんが、最初はだいぶ失敗しましたよ。年々畑に天敵が増えて害虫が大発生することも無くなったし、施肥や整枝の方法を自分なりに工夫して、4年目頃から良いお茶が取れるようになりました。今は新規就農者の方が入っても一年目から良いお茶が取れるように指導する自信がありますよ。

  • 口コミが経営を支える

    「販売は全て通販を中心とした直販です。今は無農薬茶の会の奥さんたちも世代交代して、消費者の会員はいませんけど、口コミで販売は広がってきました。最近では海外からも訪ねてきてくれて、うちのお茶のファンになってくれています。
    「うちは元々集落の中で一番小さな農家でした。もし自分が慣行栽培 (非有機栽培) の農業をやっていたらとっくに潰れていたと思います。この小さな農家がポリシーをもって無農薬 (農薬無散布) の農業をやって来たから、後継者も帰って来てうちの経営が存続しているんだと思います。」

    茶畑に生き物を殺す農薬を撒くのが嫌だと思っていた生産者と、食の安全を考えて無農薬のお茶を求めていた消費者が出会って無農薬茶の会が生まれた。当時私達は誰かに指導を受けたわけでもなく、苦労しながら自分たちで栽培方法を確立してきました。

受賞歴

Awards

O-CHA パイオニア賞、特別大賞受賞

杵塚敏明が無農薬茶栽培を広げる活動や功績が認められこの度特別第賞を受賞することとなりました。
無農薬栽培を始めた当初、周りの農家からの理解も得られず苦労しました。
そんなときもいつも応援し支えてくださったのは、消費者の方々でした。
皆様に応援いただいた分、今度は私たちが有機農業を目指す農家の育成、自然環境を守る活動、安全な食料のための農産物自給率の向上に更に力を入れていきます。

無農薬茶を作るということ

Making pesticide-free tea means

「日本の土は弱酸性」などという理屈を誰かに知らされたわけでもない。
しかし太古の昔から日本の百姓は上作りを忘れなかった。家畜はほとんどの農家で飼われ、養は大地に還元されていた。稲藁を利用しての堆肥作り、人糞を使っての水肥を、そして枯草枯葉を集めては、せっせと田畑にかつぎこんだ。耕地の周りには、その面積の倍にも比する草場があった。つまり土を生き物と規定し、健全なエサを与えミミズをはじめとした土壌微生物やバクテリアの働きで肥沃な土を作り、その土から作物という新たな生命を生 み出し、それを人間の命を保持する食糧としてきた。まったく自然のサイクルの中で農業が営まれてきたわけである。
農耕民族としての歴史は原始共産制社会までさかのぼるがきわめて重要な事はその後、奴隷制社会、封建制社会資本主義社会と、 社会の構造は変わっても、営々として自然との調和の中で、あらゆる工夫を積み重ね農業が続けられてきたことである。
それが現代資本主義の時代に移り、省力化、機械化が小される中でこれまで数百年、数千年と積み上げてきた日本の風土に合った農法の優れた面まで、完全に忘れ去られてしまった。これはただ農民だけの責任だろうか。はっきり記すなら1960年、日米安保条約が結ばれ経済協力にもとづき外国農産物の事実上無制限の輸入政策がとられ、亡国農政のスピードに一層拍車がかけられたこと。また、1961年には農民切り捨ての農業基本法が足され、外国農産物に対応するには自立農業規模拡大選択的農業への掛け声のもとに農民は尻をひっぱたかれてきた。
その結果、家畜は農村から姿を消し、限られた上地からより多くの金を得るためには、土の 存在さえ忘れ化学肥料・農薬に頼りきった農法が推し進められてきた。 かつて (十数年前まで)は土から農産物が生産され続けてきた。今は上に変わって化学肥料と農薬によって生産されている。と表現すれば言い過ぎだろうか。
自然のサイクルを壊し、目先の金を取る農法の当然の帰結として、農業は平和産業から公害産業に変わろうとしている。土壌の悪化、強酸化は進み、土壌生物は死滅寸前となり、硝酸態窒素を多投した牧草で飼育された乳牛が起立不能症 (腰抜け病) にかかったり、化学肥料による地下水の汚染は全国各地どこを見ても、めずらしいことではなくなってしまった。
さらにバカげたことには、農薬で農民が毎年死んでも、病害虫を 100% 根絶することは、どんなに強力な農薬を使ってもできなかった。農薬によっては30年間もの間、土壌に残留するといわれる。体内への蓄積、他の食品添加物との相乗作用、子孫への影響等、問題は山積みにされている。
お茶だけを無農薬にし、会員だけが利用しても問題の解決になるとは思わない。しかし私達には自然を守り、自らの生命を守り、子孫により良い環境を継承していく義務があるのではないだろうか。
その意味からも、この仕事に生産者、消費者がその立場を超え、力を合わせて取り組むことの意義は大きい。
どんな大河の源も、きわめてわずかな水の流れに始まる。